小野田寛郎少尉が語った日本が大戦を始めた真実
なぜ「開戦の詔書」を読まないのか!
靖国神社参拝しない総理へ向けた衝撃のスピーチ!
小野田寛郎さんが2014年1月16日お亡くなりになりました。91歳でした、小野田さんは、かつて小泉元首相が靖国参拝時「心ならずも戦場に赴いた人々」と述べたことについて強く批判していました。
今回は小野田さんが靖国神社で行ったスピーチ全文と私たちに伝えたかった思いをご紹介します。
【小野田寛郎少尉】
「終戦60周年国民の集い」における小野田寛郎氏のスピーチ【靖国神社】
ご紹介をいただきました小野田でございます。私は今までこの席を借りて、あるいは他の会合で黙って靖国神社にお参りしていただきたい。
それをお願いして参りました。
今、平沼さんが言われたように、靖国神社に15日にお参りすると言ったのは、他でもない小泉首相であります。
「命をかけて」と言って、いわゆる(衆議院)解散をしました。
何故、「命をかけて」今日お参りできないのか
私はあえて首相を貶したくありません。しかしながら、一国の首相たるものが、この靖国神社へお参りをして「心ならずも」と英霊に対して言葉をかけております。
果たして私たちは「心ならずも」あの戦争で命を散らせたのでありましょうか。
私が国の手違いによって、十五年間靖国神社におまつりをして頂きました。
もし、私がその時に本当に死んでいたとすれば国のために我々が戦わなければ誰が戦えるのかと、そういう自分たちの誇りを持って力いっぱい笑って死んでいったのであり、また私だけでなしに私の仲間も皆そうであります。それが何で「同情」の対象なんでしょう。
「誇り」を持って死んだ人に対して、なぜただ黙って「ありがとうございました」と感謝の念を捧げられないのか。
私は小泉首相に大反対であります。
靖国神社について、あるいはまた戦後のいわゆる国際裁判のこと、色々先ほどから諸先生方にお話を伺いました。
また、ここにお集まりの皆さま方は、充分そのことをご承知のことと思います。
事後法(東京裁判のこと)など裁判ではありません。 A 級戦犯とは、敵国側が占領中につけた名前であって、決して我々の認める名前ではありません。
私はただ一言だけ、時間の関係で皆様に何としても申し上げたいことがあります。
しかしながら、現在の日本において何故「開戦の詔書」を拝聴する機会がないのかということであります。
ものには「終わり」があるということは、「はじめ」があるからです。
「結果」があるということは、原因があるからであります。
「開戦の詔書」は、私は本当に入隊するまでの間、しばらく何ヶ月か、いわゆるお聞きしました。
今でもよく憶えております。
【昭和天皇陛下御写真】
「豈(あに)朕(ちん)ガ志ナラムヤ」(※現代訳:このように事態は、決して私の本意ではない。)と仰せられいるのであります。
「帝国ハ今ヤ自存自衛ノ為、決然起(た)ッテ一切ノ障礎(しょがい)ヲ破碎(はさい)
スルノ外(ほか)ナキナリ」
(※現代訳:日本の自存自衛の為には、立ち上がる他はない)陛下の言われている所に、大東亜戦争の真の目的がハッキリと示されているのであります。
何が侵略戦争でありましょう!それを、ハッキリ日本国民が自覚すれば、この靖国神社に黙ってお参りをし、そして黙って感謝の気持ちを捧げられるはずであります。
その感謝の気持ちこそが、国を守るという大きな気持ちに繋がっていく、私はそれを死ぬまで皆様方に申し上げたいと思います。
どうか皆様、私が申し上げた「開戦の詔書」には、一部言葉の違いがあるかもしれませんが、
意味においては、私は絶対に間違ってないと思います。
私は国のためを信じて30年間戦い続けてきました。だけど、生きていたから靖国神社では落第生であります。
だけど、私と同じ時に死んだ、この仲間の気持ちは私と同じでありまして、私が今生きているからこそ、皆様にそう伝えたいわけです。
ご清聴ありがとうございました 。
開戦の詔勅 【現代語訳文】
神々のご加護を保有し、万世一系の皇位を継ぐ大日本帝国天皇は、忠実で勇敢な汝ら臣民にはっきりと示す。
私はここに、米国及び英国に対して宣戦を布告する。
私の陸海軍将兵は、全力を奮って交戦に従事し、私のすべての政府関係者はつとめに励んで職務に身をささげ、私の国民は各々その本分を尽くし、一億の心をひとつにして国家の総力を挙げこの戦争の目的を達成するために手違いのないようにせよ。
そもそも、東アジアの安定を確保して、世界の平和に寄与することは大いなる明治天皇とその偉大さを受け継がれた大正天皇が構想されたことで、遠大なはかりごととして、私が常に心がけている事である。
そして、各国との交流を篤くし、万国の共栄の喜びをともにすることは、帝国の外交の要としているところである。
今や、不幸にして、米英両国と争いを開始するに至った。
真にやむを得ない事態となった。
このような事態は、決して私の本意ではない。
中華民国政府は、以前より我が帝国の真意を理解せず、みだりに闘争を起こし、東アジアの平和を乱し、ついに帝国に武器を取らせる事態に至らしめ、もう4年以上経過している。
幸いに、国民政府は南京政府に新たに変わった。
帝国はこの政府と、善隣の誼(よしみ)を結び、ともに提携するようになったが、重慶に残存する蒋介石の政権は、米英の庇護をあてにし、兄弟である南京政府と未だに相互のせめぎあう姿勢を改めない。
米英両国は、残存する蒋介石政権を支援し、東アジアの混乱を助長し、平和の美名にかくれて、東洋を征服する非道な野望をたくましくしている。
あまつさえ、組する国々お誘い、帝国の周辺において、軍備を増強し、我が国に挑戦し、
さらに帝国の平和的通商に、あらゆる妨害を与へ、ついには意図的に経済断交をして、帝国の生存に重大なる脅威を加えている。
私は政府に事態を平和の裡(うち)に解決させようとし、長い間、忍耐してきたが、
米英は、少しも互いに譲り合う精神がなく、むやみに事態の解決を遅らせようとし、
その間にもますます、経済上、軍事上の脅威を増大し続け、それによって我が国を、屈服させようとしている。
このような事態がこのまま続けば、東アジアの安定に関して我が帝国が払ってきた積年の努力は、ことごとく水の泡となり、帝国の存立も、まさに危機に瀕することになる。
事ここに至っては、我が帝国は今や、自存と自衛の為に、決然と立ち上がり、一切の障害を破砕する以外にない。
皇祖皇宗の神霊をいただき、私は、汝ら国民の忠誠と武勇を信頼し、祖先の遺業を押し広め、速やかに禍根を取り除き、東アジアに永遠の平和を確立し、それによって帝国の光栄の保全を期すものである。
【昭和天皇陛下/渡英時のお写真】
天皇陛下からの御注文
「豈(あに)朕(ちん)ガ志ナラムヤ」(※現代訳:このような事態は、決して私の本意ではない。)
この文言については、「開戦の詔書」の公表に至るまでの過程が記述されている「大東亜戦争宣戦詔書草稿綴」という「綴」の中の、「元内閣官房総務課長稲田周一氏からの聴取書」で、挿入された経緯が書かれているそうです。
その中では詔書の起案に関わった稲田が、「起草審議の途中、当時の東條英機総理から、詔書のことについて内奏(天皇の裁可を得るために所管の政務について報告する事)した時、天皇陛下からの御注文があり、それを詔書案に織込む件の話があった」と語っているとのこと。
その昭和天皇からの御注文とは、「日英の開戦は、従来明治天皇以来の親密な関係から特に忍びないところである。
なお、自分自身も皇太子として渡英し、非常な優遇を受け親交を重ねている。なんとかこの気持ちを詔書に表現してもらいたい」という、趣旨があったそうです。
それを受け、熟慮の結果、稲田は「豈(あに)朕(ちん)ガ志ナラムヤ」という文言を取り入れ、承諾されたそうです。
小野田さんのインタビュー
小野田さんは、ルバング島で、当初、ビラを見たり、ラジオを聞いたりしていたが、投降しなかった理由をこう語っています。
=小野田=
日本はアメリカに占領されて傀儡政権(かいらいせいけん)ができている。
みんなは平和だとか、復興したと。だけど、あくまでアメリカに負けた国。僕に関係ない国。
=インタビュアー=
その国は傀儡政権によって操られている国で、
本当の日本というのは、また盛り返してくる?。
=小野田=
それが正当な「日本」。
ブラジルに移住した小野田さんが伝えたかったこと
小野田さんは帰国後、田中角栄からもらった見舞金100万円全額を靖国神社に奉納したところ、
マスコミから相当なバッシングを受けるなどあり、結局「自虐史観で染まった戦後の日本」から、遠く離れた方がいいと決めてブラジルに移住したんですよね。
これは、戦争に行った方達が、戦後ほとんど戦争の話をしなかったということにも繋がると思います。
「日本軍は全て悪」という刷り込みの中で、子や孫が、その言葉を学校で習ってきて、テレビからもそういうことが流れていた・・
戦後の日本人は、「耳を傾けよう」とすらしてこなかったのだと思います。
多分、「日本を命がけで守ってくれて本当にありがとうございました。」
この言葉を直接かけることのできた日本人は戦後、ほとんどいなかったのではないでしょうか・・・
註:平沼さん(平沼赳夫・元経済産業大臣/2001年(平成13年)第2次森内閣で初代経済産業大臣に、第1次小泉内閣においても再び経済産業大臣に任命された衆議院議員)
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