太平洋のミクロネシア地域に位置する美しいパラオ共和国は多くの島々からなっている。パラオへは、成田空港発の直行便で4時間45分と意外に近い国です。
人が住んでいる島は最大都市があるコロール島含め9島のみで世界遺産に登録されている。ロックアイランド郡と南ラグーン、美しい海は多くのダイバーを魅了している。
だけど多くの日本人はパラオをスキューバダイビングのできる南のリゾート地としか思っていない。それはね悲しいことです。マストゥラさんの動画から紹介します。
目次
- パラオの植民地時代
- 日本統治は先ずインフラ設備を作り始めた
- パラオはアメリカ統治に
- その国の少数民族に統治させる手法
- 米国はパラオで反日プロパガンダを徹底
- 1994年10月1日にはパラオは米国統治から離れて独立
- クニオ・ナカムラ大統領の悲しみと屈辱
- ペリリュー島民の言い伝え
パラオの植民地時代
パラオにもやっぱり植民地時代があったのです。パラオは1885年にスペイン領東インドの一部にされ、しかし1899年に国力が落ち続けていたスペインは450万ドルでグアムを除いた「スペイン領東インド」はドイツ帝国に売却した。その中にはパラオも含まれていた。ドイツはパラオでココナッツ、タピオカ栽培アンガウルにおけるリン鉱石採掘数などを行った。それらはドイツ人に独占されたんだよ、西洋列強によって植民地にされた多くの国は道路や水道などのインフラ整備はままならず地元の人たちの初等教育すら学ぶことができなかった。それは言葉にできないほどの苦労をした。
今回もこちらの本、「日本はなぜアジアの国々から愛されるのか」著者:池間哲郎先生(扶桑社文庫)を参考に皆さんと一緒に勉強していきたいと思います。
1885年パラオはスペインの植民地となった。
それは圧制と虐殺、天然痘などの疫病の蔓延で人口は6万人が生活していたが、僅か6000人になるほど多くの島民が亡くなった。90パーセントもの人々がなくなってしまった。それがどれほどのひどく辛い植民地政策だったか考えるだけで、辛くなる。
1899年にドイツ帝国へ売却されたんだ。
そのドイツも残念ながらパラオで搾取と略奪と言えるような植民地政策を続けた。
第1次世界対戦が終わるとパリ講和会議で日本の委託統治領と決まった。
パラオの島の人々はどうせ白人から日本人に変わるだけだろ。また、我々は酷い目にあうに決まっていると諦めと悲しい覚悟でパラオに住む人々は身構えていた。
日本統治は先ずインフラ設備を作り始めた
ところが日本はそうではなかったんだ。学校を作り病院、道路、水道、電気など日本は当たり前のようにインフラ整備をし始めたんだ。そして島に住む人たちを差別することなどなく日本人と同じように接してくれた。パラオは今でも日本を愛している。
そして日本を大事にしているんだ。
西洋列強の植民地主義者たちは有色人種を人間とは思っていなかったのかもしれん。
ここでも他の植民地と同じように教育も与えず島の人々のためにインフラ整備も行うこともせずにいかに奪い去るかだけを考えているかのような統治だったんだそれに比べて日本の違う、特に日本が大きく違う部分はね。
日本本土と同じように政策を実行したんだ。教育それは最も大切なこととして優秀な子供達を大勢育てた。そして彼らに自信を与えたんだ。パラオ人もやればできるんだ。
1945年8月15日、昭和天皇による玉音放送でボスダム宣言受諾を知らせた。
パラオはアメリカ統治に
日本の敗戦後パラオは米国統治だったそして激しい反日教育を施した島に浸透していた。パラオに残る日本文化を徹底的に破壊した。二宮尊徳像もぶち壊し、神社も破壊、学校教育では日本は残虐、日本は悪魔、日本はパラオ人を虐殺したと長い長い期間にわたり学校教育を行ったんだ。それでもパラオの人々は日本人のこと決して忘れはしなかった。特に日本の統治時代を知る長老たち彼らは若いパラオ人に日本の統治時代を教えた。多分ここがパラオと他の東南アジアと違うところなのかもしれない。
その国の少数民族に統治させる手法
私の生まれ育ったマレーシア歴史については長老から若い世代へ受け継がれることが少なかった。それはマレーシアは統治される他の植民地と同じようにイギリスの植民地政策パターン、この方法を利用している。その国の少数の民族にその国の主体となる民族を支配させる統治方法させるマレーシアでもマレー人を少数である中国系、華僑、華人に支配させ、間接的に統治をした。
この方法によって恨みの方向はイギリス人に向かわず実際に支配をしてきた少数民族に対し強い恨みを持ちそれが今でも民族対立が残る悪法だと言える。
日本においても戦後GHQの政策は、米国人の直接統治を避けしかもよく似た在日朝鮮人に日本統治をさせる手法をとっています。
マレーシアで言えば日本の敗戦後、次の世代へ歴史を正しくは伝わらなかった。
そこには多民族国家特有の難しい面が壁となっている。教科書の中でも日本兵の残虐性については学校授業で教わる。教科書の問題など難しいので今回はあまり深く話しません。
=話をパラオに戻します=
米国はパラオで反日プロパガンダを徹底
学校教育では日本は残虐、日本は悪魔、日本はパラオ人を虐殺したと長い長い期間にわたり学校教育を行ったんだ。それでもパラオ人はプロパガンダを信用することはなかった特に日本統治時代を経験した長老たちをこんなことを言っている。
「一体何を言ってるんだ日本は素晴らしい日本統治時代が一番良かった」と今の人々もこう語る。何があっても私たちは日本を愛している。
1994年10月1日にはパラオは米国統治から離れて独立
1994年10月1日にはパラオは米国統治から離れて独立した。パラオは世界の中でも有数の親日国だからこそ、多くの日本人にバラオを知って欲しいと思う。
私の生まれた国マレーシアそして長い間首相であったマハティールさんも言っている。他民族に支配されるのはどの国にあっても屈辱的な苦しみであるそれは相手国が日本であったとしても苦しみであった。日本の占領下の時に学費を稼ぐために屋台でピーナッツを売っていた。その時イギリス人はお金を払うこともせずに勝手に商品を奪うことも、しょっちゅうあった。それと比べれば日本の軍人はきちんとしていた、ちゃんとお金を支払ってくれた。
街で見かける日本軍人は、折り目正しく勇敢で愛国的だったと繰り返し話をしている。パラオの人々は日本、日本人を大好きなんだよ。それは日本統治時代の日本人の真面目さ優しさ誠実さ島の人々との触れ合いからだったと思う。
「帝国軍人が貴様らごときと一緒に戦えるか」大声で怒鳴りつけた。
日本とペリリュー島の人たちは固い友情で繋がっていた。それなのにどうして中川州男守備隊長は共に戦いたいという島の人たちに対して怒鳴りつけた。だけどこれはアメリカと戦うにはあまりにも圧倒的戦力の差があったんだだから彼らを守るための優しさだった。
中川 州男(なかがわ くにお、1898年(明治31年)1月23日 – 1944年(昭和19年)11月24日)は、日本の陸軍軍人。陸士30期。最終階級は陸軍中将。
太平洋戦争(大東亜戦争)のペリリューの戦いにおいて、歩兵第2連隊長としてペリリュー島守備隊(約1万2千名)を指揮し、同島を長くても3日で攻略できると楽観していたアメリカ海兵隊(約4万9千名)を相手に71日間に渡って組織的戦闘を続け、自軍の玉砕と引き換えにアメリカ海兵隊に多大な損害を与えた武功で知られる。
こちらの本「日本はなぜアジアの国々から愛されるのか」著者:池間哲郎先生(扶桑社)はアジア各地での支援や調査活動を行っている。
そして現地の方々から西洋列強による植民地時代の悲惨な話を聞き当時は植民地になるのか、植民地にするのかこの二者一択だったんだよ。幕末から明治大正にかけて戦い敗れたとはいえあまりにも恐ろしいほどの劣勢の中で日本人は戦い続けた。池間先生は入っている「軍部の暴走など」と非難する日本人もいるそれでも誇りを懸けて戦った先人を心から尊敬している。
もし日ロ戦争に負けていたら、もし日本が戦っていなければと思いは巡る。
日本人が誇りを賭けた闘いを挑んでいなければ今日、現在も世界は植民地政策の中にあったかもしれないと彼は言っている。
1947年から50年近くもの間は日本に変わり、アメリカの信託統治が行われていたパラオでは徹底的に日本の破壊が行われた。そして日本の悪だけが 教えられた。それでも、なおパラオの人達は日本を嫌いにはならなかった。
1994年10月1日にやっと独立することができた。
それから1年1995年10月1日に「バラオ独立1周年記念式典」が盛大に行われた。
多くの国々から要人が参列し色とりどりの国旗が飾られた。
そこにはあるはずの国旗がなかった。パラオの国旗は日本の国旗ととても似ている
国旗をデザインした両親は国旗のデザインの青はパラオの美しい海、黄色の丸はパラオから見える美しい満月をイメージした。
日本の日の丸は日出る国の対応、パラオは夜の美しい海に浮かぶ月、お互いに自然を愛するところでも共通の思いがあるんだと思います。
バラオの人たちにとって人間の活動に満月の時が最も適していると考えている。
それなのに、1995年10月1日のパラオ独立1周年記念式典が盛大に行われた多くの国々から要人が参列し色とりどりの旗が飾られたが、その中に「日の丸」は並んでいなかった。この時は村山内閣(社会党、現在の立憲民主党)が誕生した1995年10月1日だった。祝電さえも送ることはしていなかった。
クニオ・ナカムラ大統領の悲しみと屈辱
クニオ・ナカムラ大統領はわなわなと体を震わせ悲しみと屈辱に耐えた。パラオは中華人民共和国を拒絶し台湾と国交を結んでいる。このことが村山内閣が祝電さえも送らなかったこととは関係あるのかはわからないそれでもパラオに対して悲しい気持ちになりました。
第7代第9代大統領を務めたトミーレメンゲサウ氏の言葉を紹介します。
日本は第二次世界対戦から今日にいたるまでの年月で敗戦から見事に立ち上がりそれどころか産業、経済、文化など様々な分野において世界のリーダーとして活躍されています。そんな日本の皆さんのバイタリティが実は私たちの国パラオを作ったという事実をご存知でしょうか?終戦までの日本は数万人に及ぶ日本人入植者を送り込み南洋庁を作り私たちパラオ人のために様々な教育や産業を伝えました。
それは、後にパラオ独立のための貴重な原動力となりました。そして現在でもパラオの長老たちは日本のことを「内地」と呼び世界でもっと親日感情が高い国といっても過言ではないのです。これほどまでに日本のことを思ってくれるパラオは日本を愛している。
これは今から10年前の東日本大震災の時、当時パラオでは被害者を忍び5日間にわたって半旗が掲げられた。
そして多くのパラオ政府関係者、島に住む皆さんが弔問記帳に訪れまたパラオ国内で大規模な募金活動が行われました。さらにマリステラ小学校で生徒自らが企画したチャリティーイベントが開催され、ペリリュー島で小学校生が日本の子供たちに向けて手紙を送るなどパラオの子供たちも日本を支援するさまざまな活動をしてくれました。
福島第一原子力発電所事故を原因として日本産食品の輸入制限を行った国が多くあった中、パラオは日本からの輸入制限は一切行いませんでした。
パラオでは世界的に猛威を振るう新型ウィルス感染症が今まで1例も確認されていません。そのため今年も無事に天皇誕生日レセプションを開催する幸運に恵まれた。
パラオのコロールからバベルダオブ島へかけられた橋はね「日本パラオ友好の橋」と言う。この橋を建設されるには色々な出来事が起こった。
1977年にKBブリッジを韓国建設会社のソシオが工事を請け負った。しかし完成直後から崩落の可能性が高かったようでそれは手抜き工事だったからなのです。日本の JICA やイギリスの調査会社が調べた結果、このままでは陥没が進行すると判断したため補修や補強を行った。
しかし、手抜き工事はそれだけではどうしようもなかった。1996年9月26日に橋中央部が折れて海峡に崩落した。そして橋を通過中だった地元民2人が亡くなり、多数の負傷者が出てしまった。KBブリッジさらに被害はそれだけではなかった、首都のあるコロールへつながる、ライフライン電気や水道、電話などこれらもダウンしてしまったんだ。国家非常事態宣言を発令するほどだったんだ暗黒の9月事件ブラックセプテンバーとも呼ばれてる。
パラオ政府は当然ソシオ者に損害賠償を請求しましたが、すでにそうしようこの会社は解散していたんだよ。韓国政府に救いを求めた韓国政府からの答えは我々には関係ない民間のしたことだ。そのため途方に暮れていたパラオに対し、日本が JICA を通し手を差し伸べ、1997年日本の無償援助で鹿島建設が請負い2002年1月に完成した。
この橋の名前は「日本パラオ友好の橋」と名付けられ日の丸とパラオの美しい月の国旗が書かれていた。
パラオの人々はこう言っているよ「日本に助けられた日本に感謝している」とみんな口々に言うだけれどもこの問題は橋を作った国は、パラオでも活動している。韓国人犠牲者青年平和祈願というものを作っている。
佐藤正久参議院議員はこう言っているよ韓国人犠牲者青年平和祈願塔問題は、日本政府とりわけ外務省の情報戦に対する認識不足と安全保障感覚および先人に対する感謝の気持ちの希薄化の結果でありこれらを根本的に改善して行かねば、親日国家として知られたバラオがいつしか韓国や中国に取り込まれて反日国家の仲間入りする恐れがあります。日本政府も外務省もこうした危機感をしっかりともってもらわねば困るのです。
ペリリュー島民の言い伝え
ペリリュー島の村人に言い伝えがある、強風が吹いたら日本人が作った建物へ逃げるんだ。2012年、猛烈な台風が吹き荒れた。木々はなぎ倒され家は崩壊した。
昔から日本人が作った建物はとっても丈夫だから台風が来たらその中に避難しろと教えられていた。島の人々は日本軍が建てた司令部の跡地や発電所、倉庫などで不安な一夜を過ごしたんだ。80年も前に建てられた建物に瞬間最大風速70メートルの暴風にさらされた。
しかし、日本人の作った頑丈なその建物は強かった。多くの人々の命が救われた。
学校建設などを依頼している。他の国の建築技師が「日本の卓越した技術はもちろん素晴らしいがもっとすごいのは、決して日本人は手を抜かないことなんです。その誠実さこそ日本人の凄さなんです」日本には先輩たちが築き上げてきた真面目さと誠実さがある。それが日本への 信頼となり日本への誇りとなる。
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