インド独立のために戦ったチャンドラ・ボース将軍と日本軍インパール作戦

インドの国会議事堂には今もインドの独立に貢献した三名の肖像が掲げられている。
ここで取り上げたいのは、スバス・チャンドラ・ボースについてなのです。

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スバス・チャンドラ・ボース(1897年 – 1945年)
インドの独立運動家、インド国民会議派議長(1938 – 1939年)、自由インド仮政府国家主席インド国民軍最高司令官。民族的出自はベンガル人。インド独立運動の武闘派であり日本軍と共にイギリスと戦った。
 
 第2次世界大戦がはじまるとガンジーネルー宗主国のイギリスを支持するという立場に立って独立運動を一時的に停止してしまった。ボースはイギリスと戦うためにドイツに亡命しており、しかし、ドイツのナチス政権は人種差別であることからボースのような人間は歓迎しない、反イギリスと言う事で行ってみたけれども芽が出ない。
 
 日本がイギリス、米国と開戦するに及んでボースはアジアに帰って今こそアジアを解放しようと言う日本と一緒にイギリス帝国主義と戦うのだと言って日本に来てくれたのです。
 
「自由インド臨時政府」インド国民軍1943年10月に樹立して日本と共に米国、英国に宣戦布告しております。
 
大東亜会議
 1943年(昭和18年)11月5日~6日に東京で開催されたアジア地域の首脳会議。
同年5月31日に御前会議で決定された大東亜政略指導大綱に基づき開催された。
史上初の有色人種国家によるサミット会議。参加諸国は、日本、中華民国満州国、フィリピン、タイ、ビルマ。これにインドのチャンドラ・ボースがオブザーバーとして加わった。
アジアを開放して平等互恵の関係で連帯して自由で繁栄するアジアを作ろうと決議したのが大東亜会議です。
 
 大東亜会議は、アジア諸国の独立・平等・互恵・連帯と西洋帝国主義からの解放を決議した。
大東亜戦争大義が議決された。
この会議においてチャンドラ・ボース臨時政府を率いる人物として大変立派な演説をされています。

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東京で開かれた大東亜結集国民大会で演説を行うチャンドラ・ボース将軍(1943年)
 1944年日本軍と共にインパール作戦を戦い。インド独立軍は一度インドに独立の旗を立てたこともあったそうです。
インパール作戦は大敗をし直接独立には結びつかなかったのですがインドが行った、はじめての軍事行動であったと言われております。
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1944年(昭和19年)3月に日本軍により開始され7月初旬まで継続された。
インドのインパールへ進行する作戦。援蒋ルート(連合国による中華民国への軍事援助ルート)の遮断を戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を目指したもので、インド独立のため決定的な軍事行動となったとさています。負けた戦いであったのですが、インド独立への歴史的な軍事行動であったと言えます。
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 インパール作戦は無謀な作戦であったと非難する方もありますが、インド独立のためには決定的な戦争であった作戦であったと指摘する人がいないことは歴史の一方的な見方でもあります。
 
 日本は破れてインドは独立しました。ボースは一時は日本軍国主義の協力者として非難されていました。ボースは1978年には名誉回復をしております。インドでは日本はアジアへの侵略者ではなくアジア諸国を西洋の帝国主義から解放した国であると認知されたわけである。
 
 チャンドラボースは最後は台湾におり日本が負けた後、ソ連に亡命しようとして8月18日午後2時、ボースは台湾台北の松山飛行場から大連へ向かう予定であった九七式重爆撃機に乗り込んだ。乗り込む直前には一人のインド人に「東南アジア在住300万のインド人からの贈り物」である宝石と貴金属の入った二つのスーツケースを受け渡した。しかし、離陸直前に左側プロペラが外れ、機体はバウンドして土堤に衝突、炎上した。
操縦士の滝沢少佐、同乗していた四手井綱正中将と士官一名は即死し、ボースは炎上する機体から脱出できたものの、全身に大やけどを負った。
 
 死を悟ったボースは、同乗していたが軽傷であったハビブル・ラーマン大佐に「インド独立の最後を見ずにして死ぬことは残念であるが、インドの独立は目睫の間に迫っている。それ故、自分は安心して死ぬ。自分の一生涯をインドの独立に捧げたことに対しては少しも遺憾がないのみではなく、非常にいいことをしたと満足して死ぬ」、「ハビブ、私はまもなく死ぬだろう。私は生涯を祖国の自由のために戦い続けてきた。私は祖国の自由のために死のうとしている。祖国に行き、祖国の人々にインドの自由のために戦い続けるよう伝えてくれ。インドは自由になるだろう。そして永遠に自由だ」と告げた。
 
 夜に当番兵がボースに「何か食べたいものがあるか」と聞くと、「カレー」と答えたように聞こえた。当番兵がカレーライスを作り、スプーンで食べさせると、ボースは「グッド」と答えた。しかし2口3口食べると、ボースはそれきり動かなくなった。午後11時41分のことであった。飛行機が離陸しようとしたときに事故が起こり、台湾で飛行機事故で死亡したと言われております。
 

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ボースの碑(ボースが眠る杉並区 蓮光寺
インドの政治家、第18代インド首相(2014-)
グジャラート州首相。インド人民党の党首であります。インド人民党はチャンドラボースの流れをくむ党であります。モディ首相は大変親日的であります。安倍首相とも大変仲がいいと言われています。現在、米国も米中の新冷戦米中対立を踏まえてインドとの関係を強化しています。

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インドのグジャラート出身の弁護士、宗教家、独立運動指導者。インド独立の父。南アフリカで弁護士をする傍らで公民権運動に参加し、帰国後はインドのイギリスからの独立運動を指揮した。その形は民衆暴動の形を取るものではなく「非暴力、不服従」(無抵抗主義ではない)を提唱した。
ジャワハルラール・ネルー(1889-1964)インドの初代首相。インド国民会議議長。
インド独立運動の指導者。著述家。マハトマガンジーとともにインド独立運動の最も著名な指導者となり、1947年に独立を達成し、インド初代首相に就任した。
 

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ジャワハルラール・ネルー(1889-1964)インドの初代首相。インド国民会議議長。
インド独立運動の指導者。著述家。マハトマガンジーとともにインド独立運動の最も著名な指導者となり、1947年に独立を達成し、インド初代首相に就任した。

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藤井厳喜先生の「【暴露】親日国への裏切り:インドネシア独立の英雄を知らない日本の総理大臣」からまとめてみました。

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